管理職の理想の仕事

管理職の仕事の中で、特に力を入れるべきは、理想の組織を作ることである。
一つの提案は、集合知の発揮で、個人で達成できないレベルの仕事が、できるようにするシステムである。
例えば、IT関連の技術開発において、アメリカ流なら一人の『超人的技術者』の活躍で、仕様決めを行い、それを指示を受けるレベルの技術者が実現する。
しかし、従来の『日本的開発』の場では、『いわゆるIT技術者』が、決めた仕様は満点でなく、『たたき台のレベル』であって、それを多数の経験や知恵を集めて、完成に持って行く。
このような、集合の力を上手く発揮させることが、管理職の役割である。

共感覚について

 共感覚とは、例えば

「数字を見たとき必ず特定の色がついている」

と言う風に、

「普通に考えると関係無いと思うモノが結びつく」

現象である。

 これは、一部の人たちには自然に現れる。

 さて、ここで私は『普通に』という言葉を、不用意に使った。これが、本当に正しいか、もう少し考えて見たい。

 この問題に、私たちの認識機構が、どのように働いているかという観点から、少し突っ込んでいきたい。例えば、大乗仏教の『唯識』の発想では、

「すべては我が心の展開」

と考えている。これは、暴論に見えるかもしれないが、現実の物事を、例えば眼で見るときにも、今までの経験や知識が影響している。この影響は、意識的に働く場合もある。一例を挙げれば、私たちは『コロナの飛沫』と言うことを、色々な情報の力で解っている。従って、町中で

「咳をしている人」

を見たら、

「コロナの飛沫が飛んでいる」

と言う風に考える。このような「知識の力が働いた認識」がある。

 さて、これをもう少し広げれば、これまでの体験の影響も有るだろう。その中には、忘れてしまった体験もある。

 このような、無意識的に認識に働きかけるモノがあるだろう。これが、共感覚の一つの原因ではないかと思う。

法律に関する基礎の議論

論理的な思考を身に着ける一つの手段は、法律の勉強をすることである。日本の法律は、憲法前文の精神を、憲法の各条文で表現し、更に刑法民放など主要六法で実行に移せるようにする。さらに、実行に関しては、細かな具体的な法律を作り、具体的な数値などは、現実に合わせて柔軟に対応できるように、施行規則、施行令などに記述する。
一方、ここまで具体化しても、現実の世界で起こる事象には、それぞれの事情がある。このような現実に対して、裁判の判例を読み込むことで、具体的な世界への応用法と、法律適用の限界を明確にしていく。ある判例では、認められた、そして別の判例では、認められない、この境界を明らかにしていく過程で、法律の理解が深まっていく。
このような、演繹的な論理展開は、数学における、公理と定義から、個別の定理を導く出す論理とは別に、現実への対応力を持った論立して、身に着けるべきものである。

しかし、世の中にある、法システムは、このようなきれいな形で収まっているものだけではない。現在のように、国際化した現状では、西洋文明的な法システムが、全てではないということを、しっかり理解しておくことが必要である。特に、進化論的な価値観をもって、

「西洋文明的な法システムを持っていない発展途上国」

などと言う見方は、慎むべきだはないかと思う。

まず押さえておくべき法律は、「宗教法」である。イスラム諸国では、コーランの教えを、法学者が解釈して、色々な判断を行う。日本人は、宗教と法律は、別物と考えているが、世界の多くの国では、これは成立しない。イスラム諸国のように、直接宗教による判断もあれば、西洋文明の多くの国のように、憲法から始まる法体系を、「神との契約」により成立したものと、宗教が前提になっている場合もある。
このように宗教を基盤にしないと、国を治める、民衆を治めることができないのが、多くの国であった。日本の政教分離というか、曖昧な信仰は、世界の中でも特異である。

もう一つは、固有法と継受法の違いである。日本の法律は、律令は中国から、明治以降の法体系は西洋文明からと、外にある先生の模範を改修した「継受法」である。継受法の利点は、既にあるものを見て作るので、全体像を見ながら良い構造にすることができる。一方、欠点は、時代の変化などに、追従できないことがあるということである。律令制度は、「私有地」という概念で矛盾が出た。現在の憲法では、自衛隊という「令外の官」が生まれている。
一方、固有法というのは、現実対応で生まれた法律である。この法律は、多くは前例の積み重ねを、一般化して法律にしたものである。律令制度の私有地に関する不備は、結局は鎌倉幕府の私有財産に関する裁定の法律化である、貞永式目を生んだ。近代法規の誕生の国である、イギリスでも、多くの法律は判例の積み重ねである。
このように、固有法の場合には、抽象化し一般化する、帰納的な論理が働いている。

法律のシステムと、一言で言っても、このように多くの形があることを、知っておくべきである。

文系の学生の就活について

近頃、大学の文系学部を減らすという話を聞く。これには、ある経営コンサルタントの意見などが影響しているらしい。彼の言うL型大学と言う話には、実学志向と言う大筋には評価すべきものがあるが、教える内容に関しては、今一と言う感じが強い。

企業で社員教育をしてきた経験から言えば、変な実用に走るより、三段論法によるきちんとした論理の組み立て方などの、基礎教養をしっかりさせてほしいと言う想いが強い。もっと言えば、マックスヴェーバーの、文化の比較手法などの考え方を理解させ、応用できるようになってほしいと思う。

さて、この話で私が腹立たしいのは、大学側からの反論が弱いということである。自分たちの教えていることが、しっかりした考え方を作るのに役立つか、しかもそれが現実の世界でも、ものごとを考える基礎となる。このようなことを、しっかり言えないのだろうか。

実は、私が就活で指導した子の経験でも、学生時代に学んだことを、仕事で生かすという観点で、エントリシートなどに書けていない子を見受けた。

本当の総合職と言うならば、広い視野で情報を集め、強靭な論理性で議論して、提案をまとめる力は必須うだと思う。そのために、文系の教養は重要だと思う。

納得されやすい話の仕方

説得力のある話方には、単なる論理的と言うものを超えるものが必要である。特に、日本語のコミュニケーションでは、高度の文脈依存性があり、話題の舞台を共有しているという、暗黙的な前提がある。従って、日本語の論理展開は、西洋的な三段論法より、以下の形が多い。

XXはYYである。
YYならばZZであるということは、当然のことである

このためには、YYと言う言葉のイメージがしっかりしていないといけない。逆に、記号の独り歩きによる混同も避けなければならない。例えば、ある火山災害の時に、自衛隊を救難派遣した。そこで、装甲車を出したが、『戦争用の車両』を出したということで、非難した評論家がいた。このような人は、『戦闘用』と言う言葉だけに反応したのであり、実際に火山弾などが降ってくる、危険な地域における防弾車両の効用を、考えていない発言である。

このような発言を、地に足がついていないというが、現実の状況と記号の関係は、抽象のレベルをきちんと見ながら評価する必要がある。このような抽象度の扱いと、前提条件の確認をきちんと行えば、説得力のある議論ができる。