鈴木良実 について

60代のおじさんです。長年勤めた会社では、ソフトウエアのエンジニアから 社員研修を主に担当してきました。 またある縁で、大学の学外講師としての経験もあり、 学生さんの状況もある程度は理解しています。 この経験を活かして、就活などから管理者研修にまで 役立つ、「知識の活かし方」について情報提供していきたいと思います。

管理職の理想の仕事

管理職の仕事の中で、特に力を入れるべきは、理想の組織を作ることである。
一つの提案は、集合知の発揮で、個人で達成できないレベルの仕事が、できるようにするシステムである。
例えば、IT関連の技術開発において、アメリカ流なら一人の『超人的技術者』の活躍で、仕様決めを行い、それを指示を受けるレベルの技術者が実現する。
しかし、従来の『日本的開発』の場では、『いわゆるIT技術者』が、決めた仕様は満点でなく、『たたき台のレベル』であって、それを多数の経験や知恵を集めて、完成に持って行く。
このような、集合の力を上手く発揮させることが、管理職の役割である。

共感覚について

 共感覚とは、例えば

「数字を見たとき必ず特定の色がついている」

と言う風に、

「普通に考えると関係無いと思うモノが結びつく」

現象である。

 これは、一部の人たちには自然に現れる。

 さて、ここで私は『普通に』という言葉を、不用意に使った。これが、本当に正しいか、もう少し考えて見たい。

 この問題に、私たちの認識機構が、どのように働いているかという観点から、少し突っ込んでいきたい。例えば、大乗仏教の『唯識』の発想では、

「すべては我が心の展開」

と考えている。これは、暴論に見えるかもしれないが、現実の物事を、例えば眼で見るときにも、今までの経験や知識が影響している。この影響は、意識的に働く場合もある。一例を挙げれば、私たちは『コロナの飛沫』と言うことを、色々な情報の力で解っている。従って、町中で

「咳をしている人」

を見たら、

「コロナの飛沫が飛んでいる」

と言う風に考える。このような「知識の力が働いた認識」がある。

 さて、これをもう少し広げれば、これまでの体験の影響も有るだろう。その中には、忘れてしまった体験もある。

 このような、無意識的に認識に働きかけるモノがあるだろう。これが、共感覚の一つの原因ではないかと思う。

就活で主張できる強み

就活のエントリーシートなどで記入する、自分の強みについて、採用側目線で考えてみた。まず採用側の考えは、単に現状の力や知識より、
将来も成長する可能性
を重視している。そのために必要なものは、以下の3点になる。

  1. トラブルに対処し自分で道を切り開いた経験
  2. 多面的な見方で論理的に原因結果を考える力
  3. 自分の経験を一般化し他でも使えるようにする

この3者は独立でなく、総合的に働くものである。トラブルが発生した時にも、冷静に原因を追究し、対処する力があれば、打たれ強く自分で道を拓くことが多い。さらに、多面的な見方ができれば、トラブルへの対応力はますます強くなる。

そして、自分の経験を一般化する力は、論理的に考えることで、本質を見抜く力が必要である。本質を見抜けば、一般化することが容易である。一般化し、その限界も考える。このような力があれば、自分の経験を生かして成長していくことができる。

このような人財を採用側は求めている。

人工知能ブームと就活の関係

世の中は、「人工知能」ブームで沸いている。しかしながら、人工知能の研究者や、関連研究室の学生の就活については、本当に明るいものだろうか?

私は、このブームに関して何度かあった現象を、思い起こしている。一番近くでは、「複雑系ブーム」で、数学出身者がもてはやされた時である。この時は、金融工学、XX工学などと色々な表現で、株価などの予測が数式的にできるような「夢」を多くの人に抱かせた。そしてその数式が理解できる、数学科出身がもてはやされたのである。
しかしながら、このような数式は、

「あたるときには当たる」

レベルの予測能力でしかなかった。そして、その後の採用の流れは、地道なフィールドワークの訓練を受けた、文化人類学の研究者などに重点が移ったという笑い話がある。

さて、今回の「人工知能ブーム」に関しても同じような図式が見えるように思う。確かに人工知能の研究でも、東大の大須賀先生等の昔からの「モデル作成」等の基本をきちんと研究していた人たちなら、企業に言っても色々と現在の「ビッグデータ解析」の技術などを使いこなすだろう。しかし、一般的に、ビッグデータ解析のソフトウエアの使い方を知っているレベルでは、前の例にある、リーマンショック前に採用された数学出身のような、悲喜劇になるのではないかと思う。
さて、上述の例では、数学から文化人類学者になった。今回はどの分野が、本当に役立つだろう?私の予測では、ルーマンなどの流れをくむ社会学系が、本当に役立つのではないかと思う。
しかし、ルーマンの「社会システム理論」など、本当に教えている、社会科学系の大学はどれぐらいあるのだろうか?

心理学系の学科の就職について(不安な点)

前に、心理学関係の学科の就職について、心配している方がいたので、大丈夫という意見を書いておいた。しかし、よく考えてみると、一つだけ不安な点が出てきた。

私の感じる不安というものは、価値観の相違である。もう少し言えば、営利的な企業活動に対する否定的な考えである。この否定に関しても色々なパターンがある。まず、経済学などの学生は、お金という数値で表せるものでの評価ということに、基本的に合意することが多い。しかし、心理学などでは、数値化できないものを重視し、数値を軽く見る場合もある。さらに、金銭的なモノの評価も低い場合もある。

例えば、市場に評価などでも、価格面での均衡を考える。従業員の評価に関しても、まず金銭ということで給与額や賞与の話になる。しかし、心理学なら人間関係を重視するだろう。

このような、価値観の相違が一つの障害になることもある。このような障害は、自分たちが意識することで、相手の価値観を理解し、合わせることができるようになる。こうした対策ができれば、心理学の出身だからと言って、恐れることはないと思う。

昔の話であるが、ソ連崩壊までは、日本の大学の経済学の多くは「マルクス経済学」であり、資本主義経済には否定的な教育すらあった。それでもたくさんの学生を採用し、しかも今の会社の幹部になっている人間もいる。このような事例もあることは知っておいてもよいと思う。

心理学関係学科の就職について

Y○知○袋で一度答えたことがあるが、
「心理学系学部の就職が不利」
という話に関して、もう少し踏み込んで議論してみたい。

まず、この話の背景を少し考えてみよう。現在社会は、多くのストレスを抱えている。特に個人が抱えていることが多く、厚生労働省などは、色々と政策的な手段で対応しようとしている。この流れに乗って、カウンセラーの育成に目をつけ、臨床心理士の育成などを売りにした、心理学系の学部学科の増設があった。このような新設学科の売りの一つは、
「時代のニーズに合っている」
ということで、就活の有利さを匂わせている。

しかしながら、カウンセラーに関しては、臨床心理士以外にも、色々な資格があり、しかも実践叩き上げのベテランが多くいる世界でもある。また、個人スキルでの差も多く、感受性の違いなどあり、適性の差が大きい仕事である。これは、大学を卒業したから身につくというものでもない。

このような現状を考えると、臨床心理士だけの狭い見方で考えると、必ずしも就職において有利とはいいがたい面がある。しかも、学科設立時などのキャンペーンがどこまで強引だったかをによるが、状況によっては既存学科の敵意を買っている場合もある。厳しく見ると、同じ大学で学生の奪い合いをしている。そこまで行くと、今までの反動で、きつい意見が出ることも少なくない。

さて、本当に心理学系の学科は、就職に不利だろうか?私は、元は技術職だが、会社生活の半分以上は、総務(人事研修)に籍を置いた。そして、初級の産業カウンセラー資格も取得した。この経験から、カウンセラーの勉強は、会社の仕事に役立つと自信をもって言える。特に、職場活性化の手法などは、本質を理解するためには、ロジャーズの積極的傾聴法やエンカウンターグループの理解は必須である。また管理面では、動機づけの知識も必要であり、精神的な安定に関する見通しも必要である。

さらに、認知心理学の分野まで知識があれば、お客様の行動に関し適切なモデルを作って、マーケティングに関して見通しをよくすることもできる。社会といえども個人の集まりである。一人一人の動機付けなどを、ある程度説明できるモデルを作れるなら、市場調査や計画なども説得力あるものができるだろう。

このように自分の知識を生かすことができれば、心理学関係の出身者の活躍の場は広がると思う。

法律に関する基礎の議論

論理的な思考を身に着ける一つの手段は、法律の勉強をすることである。日本の法律は、憲法前文の精神を、憲法の各条文で表現し、更に刑法民放など主要六法で実行に移せるようにする。さらに、実行に関しては、細かな具体的な法律を作り、具体的な数値などは、現実に合わせて柔軟に対応できるように、施行規則、施行令などに記述する。
一方、ここまで具体化しても、現実の世界で起こる事象には、それぞれの事情がある。このような現実に対して、裁判の判例を読み込むことで、具体的な世界への応用法と、法律適用の限界を明確にしていく。ある判例では、認められた、そして別の判例では、認められない、この境界を明らかにしていく過程で、法律の理解が深まっていく。
このような、演繹的な論理展開は、数学における、公理と定義から、個別の定理を導く出す論理とは別に、現実への対応力を持った論立して、身に着けるべきものである。

しかし、世の中にある、法システムは、このようなきれいな形で収まっているものだけではない。現在のように、国際化した現状では、西洋文明的な法システムが、全てではないということを、しっかり理解しておくことが必要である。特に、進化論的な価値観をもって、

「西洋文明的な法システムを持っていない発展途上国」

などと言う見方は、慎むべきだはないかと思う。

まず押さえておくべき法律は、「宗教法」である。イスラム諸国では、コーランの教えを、法学者が解釈して、色々な判断を行う。日本人は、宗教と法律は、別物と考えているが、世界の多くの国では、これは成立しない。イスラム諸国のように、直接宗教による判断もあれば、西洋文明の多くの国のように、憲法から始まる法体系を、「神との契約」により成立したものと、宗教が前提になっている場合もある。
このように宗教を基盤にしないと、国を治める、民衆を治めることができないのが、多くの国であった。日本の政教分離というか、曖昧な信仰は、世界の中でも特異である。

もう一つは、固有法と継受法の違いである。日本の法律は、律令は中国から、明治以降の法体系は西洋文明からと、外にある先生の模範を改修した「継受法」である。継受法の利点は、既にあるものを見て作るので、全体像を見ながら良い構造にすることができる。一方、欠点は、時代の変化などに、追従できないことがあるということである。律令制度は、「私有地」という概念で矛盾が出た。現在の憲法では、自衛隊という「令外の官」が生まれている。
一方、固有法というのは、現実対応で生まれた法律である。この法律は、多くは前例の積み重ねを、一般化して法律にしたものである。律令制度の私有地に関する不備は、結局は鎌倉幕府の私有財産に関する裁定の法律化である、貞永式目を生んだ。近代法規の誕生の国である、イギリスでも、多くの法律は判例の積み重ねである。
このように、固有法の場合には、抽象化し一般化する、帰納的な論理が働いている。

法律のシステムと、一言で言っても、このように多くの形があることを、知っておくべきである。

コミュニケーション能力の位置づけ

CommSaiyou

コミュニケーション能力を単独で考えるのではなく、知識などの能力と相対的に考えると、上図の図式が見えてきた。就活などで、コミュニケーション能力重視というが、これは非常に誤解を招きやすい。

つまり、上図の左側を占める、それほど他の能力がない人材が、口先だけ達者なら、採用されると思い込む危険性である。一方、採用側の希望は、右側の高能力者の中で、コミュニケーション能力を重視している採用を考えることが多い。

このミスマッチが、就活での失敗につながることもある。

MBA手法を使う人、使われる子

経営学部や学科を卒業した子は、生意気で就職に苦労する、と言う話を聞いたことがある。私の会社生活の経験では、会社の仕事の上で、MBA(経営学修士)の教材などで使っている手法は、便利なものとして使っていた。従って、経営学の出身者は、事務系の学生では、会社向きの人財ではないかと考えていた。もう少し言えば、理学部と工学部の関係で、他の文系学科と経営学を見ていたように思う。

しかし、この反論として、MBA(経営学修士)の資格を取っても、えらそうに言うだけで、会社の実務はできないという話も聞いた。それを考えると、経営学部などでても、就職に苦労するというのも、あるのかなと思ってしまった。

さて、ここでMBA取得者が、なぜ失敗するのか考えてみた。あるところで聞いたジョークに

「MBA取得者を見分けるには、目の中をのぞいてみたらよい。田の字が見えればMBAだ。」

がある。これは、MBAの手法では色々なものごとを、4つに分類することが多いことを皮肉っている。確かに、重要性と緊急性のような2つの次元で評価し、それを高低で分けると4つの箱となる。このような見方で、優先度をつけることは、考え方としては有効である。

しかしながら、現実の複雑さを、いきなり4つのマスに分けて、割り切った見方をすることは、多くのモノを見落としてしまう危険性がある。いろいろと現実に向き合い、真剣に悩んだ末に4つのマスに振り分けるなら、よりわかりやすい整理とし多くの人が認めるだろう。しかし、いきなり4つのマスでしか見ない人間は、生意気なことを言っていると、拒絶されることも多いだろう。

MBA手法を使いこなす人と、使われている子の違いは、このような所にある。

なお、これをもう少し広げて考えてみた。
昔、マルクス主義経済学が日本の大学で、多く存在した。ある人は、大学の9割はマルクス経済学と言っていた。しかし、ソビエトの崩壊に応じて、その研究者は減り、多くの大学は既存教官の退官をまって、マクロ経済・ミクロ経済の形に入れ替えていった。さて、マルクス主義経済学を学んだ学生を、企業は喜んで受け入れたであろうか?
『資本家悪人論』
『社畜』
等と、まじめに働く人間を罵倒する研究室の学生を、能力があるからと言って、採用していたのが現実である。ただし、その時の条件は、
「大学で学ぶことは仕事に関係ない」
であった。

しかし、私が思うに、マルクス主義経済学は、あまりにも現実の一面だけで考えすぎる。金銭的な面だけでの数式評価、このような見方ですべてを説明しようとする姿勢、これが本当に拒絶された理由だと思う。このれを考えると、学生時代の知識だけでなく、物の考え方の基本までが否定されることになる。大学と企業の溝は、このようなものもあるのではと思う。